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バレエ嫌いが37kgになってホームレス小谷さんに会った話その1

noteはなるべく情報を発信する用に、ブログはいちダンサーが記す作品に対しての思いとか、個人的なダンサー論とか、そういうの綴る感じにできたらなと思っています。

noteは書く、ブログは綴る感じにいきたいですね。

今日はすこし「踊る」ということについて綴れたらなあと思います。

私が踊り始めたのは、1994年のことです。自営業の父とバレエ教師の母の次女として生まれた私は、きっと生まれる前から お腹の中から踊っていたのだと思います。

バレエなんて大っ嫌い

私はつい最近までバレエが嫌いでした。
2歳で始めたものの、始めて数ヶ月が経った時1度バレエを辞めています。
辞めたと言っても1ヶ月。その頃のことはよく覚えていませんが、当時の私を知る人は決まって「バレエ嫌がってたよね〜」と私に言います。

私はずっとバレエが嫌いでした。
母が母でなくなってしまうから。

レッスン場に行けば母はみんなの先生です。どうして私のお母さんなのに、私だけを見てくれないの?と不思議でした。
普通なら家に帰れば「頑張ったね!」と、お母さんはレッスンの帰りを待っていますが、私の場合は家でも先生が表れて、褒められることなんて滅多にありませんでした。

それでも母と一緒にいるには、バレエをやるしかなかった。そんな浅い理由をもち、首の皮1枚で15歳までバレエをしていた気がします。

もちろん踊ること、注目を浴びることは大好きで、舞台終了後に「あなたの踊り良かったよ!」と言ってもらえるのが、嬉しくてたまらなかったです。
この頃から、踊ることで人を動かすことができるのだと分かっていたのかもしれません。

踊れない(1)盲腸編

中学3年の秋、文化祭準備真っ只中。
私は盲腸になりました。
舞台の4日前でした。

私の行っていた中学校は3年生で演劇をやります。舞台監督になった私は、台本を一から書き演出を行い、今考えれば「ちょろい」んですけど、その時はいっぱいいっぱいだったんでしょうね。
ストレスから盲腸になりました。

おかしいなと思いながらもレッスンをし終え家に帰ったのですが、どうしても我慢できず母親に腹痛を伝えました。
「いちいちお腹痛いとか言うのカッコ悪い」と思ってる人間で、普段は滅多に言わないので母も事の大きさに気づいたのでしょう。

病院に行きとりあえず抗生物質の点滴をされました。この時初めて「舞台に立てないかもしれない」という恐怖があるのだと自覚しました。

せっかく練習してきたのに踊れないかもしれない、といてもたってもいられなくなった あの時、初めて自分の意志100パーセントで心の底から踊りたいと思いました。

踊れない(2)進路編

その後劇団四季に入りたいと思い、バレエに精を出す日々が続いた高3のある日。

大学の推薦願書を提出しなければならなくなりました。

私の成績だと附属大学の学部ならどこでも行くことができました。
看護学部、管理栄養学部、教育学部… どれも魅力的でこのどれかに行きたいと思っていました。
一方でコソコソと「バレエ科」のある大学の資料も集めていました。
自分でも不思議でしたが、大学でさえもバレエがやりたいと思ったようです。

しかしバレエ科に行くことは現実的ではありません。今でこそ東京と名古屋を往復する日々ですが、当時の私は東京はとてつもなく遠い場所だったので、無理だと思ったのです。

そこで現実的に考えると附属大学への進学でした。各学部の資料を見ていると、上の3学部はどこも5限に講義があるようでした。

「バレエに行けない。踊れなくなっちゃう。」

今までそんなこと考えたこともなかったのに、この不安が脳裏に浮かびました。
5限の終了時刻は18時。レッスン開始も18時。

諦めました。

それらの学部の資格を取れなくなることよりも、バレエができなくなることのほうが怖かったのです。

そこで、舞台のクラスもあり授業時間が選択できる表現文化学科に行きました。

大学4年間は穏便に済ませようと、なるべく目立たないように生活していました。昔から私は目立つタイプで、幾度となく喧嘩を売られたりしてきたので、もう嫌だなと思ったのです。

実際、18歳から「読書感想舞踊」を踊り始めていたのですが、親しい大学の教授の中でも私がバレエをやっていることを知らず、卒業してから「で、読書感想舞踊って何?」と聞かれたほどです。

踊れない(3)拒食症編

「あかりはLサイズ」

華奢な姉をもつ私は幼いころから、「あかりは大きいからねー」「あかりは骨太なパパ似だからねー」と言われて育ってきました。
「細い」なんて言われたこともなく、それで良いと思っていたのです。

しかし19歳の終わり頃、ふと「私が痩せたらどうなるんだろう?」という少しの好奇心が湧いてきました。

「やってみるか」

これがはじまりでした。

毎日カロリーを細かく手帳につけ、1日1100kcalを超えないよう細心の注意を払っていました。動かないことは悪いことだと思い込み、時間があれば歩いたり走ったり。

37kg

私が見た1番小さな体重計の数字です。

20歳の夏のことでした。

その頃のこと、実は覚えていません。
記憶が半年分くらい抜けています。
精神的にやられたとかは思っていません。自分の意志で始めたことですから。
でも、記憶がないというのは一つの指標かもしれません。

ただ、その当時に振り付けた作品はすごく研ぎ澄まされていて鋭い、とても良い作品であることは事実ですので、今でもこの時の感覚を大事にしたいなとは思ってますが。

身体はすっかりプロダンサー。

でも体力は違いました。
夏の発表会では、1曲踊りきることで精一杯でした。
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「このままじゃ踊れなくなる」

危機感を感じましたが、何も変わることなく、翌月からロンドンに留学しました。 

ロンドンに着いてすぐお腹を壊した私は、2日間部屋から出られませんでした。1人暮らし同然だったため、自力で外に出なければ食糧にありつけない。

なんて恵まれてたんだろう。

なんて贅沢を言っていたのだろう。

目の前に食べ物が準備されているのに、食べないなんてどんなにぜいたくだったのだろうと、半年間の自分の行動を反省しました。

しかし、そんなに簡単に治るほど摂食障害は甘くありません。一進一退、過食にもなりながら、今の心身ともに健康体に至ります。

わたし 1回死んでるんで

と、少し親しくなった人には伝えます。
私はロンドンで、20年間培った私は死んだのだと思っています。良いとこの子、先生の娘、箱入り娘の私は死にました。

自分を主体として見過ぎたから起きた摂食障害なので、私はこれ以来私を第三者として見ることにしました。

踊れない(4)小谷さん編

紆余曲折ありつつ大学4年になった私は、2月に再びロンドンに行っていたため1月解禁の就活に出遅れてしまいました。

そこで、もういいやと思ってバレエに精を出してみることにしました。週に3日、東京恵比寿にあるバレエスクールに通い、夏は1週間東京に滞在しバレエの講習を受ける。

幸せな時間でした。

そんな日々を過ごしていたある日、就活スーツを着た友人に出会いました。
聞くと「まわりはもう内定をもらっている。ヤバい」と。

私も「ヤバい」と思って、8/20から就活を始めました。

売り手市場だったため、難なく内定を5つゲット。
1社から正式に内内定通知をもらいました。

その時に「もしかしてこれでもう踊れなくなるの?」と漠然とした不安を感じました。

なぜなら、面接時に「これまで長くバレエを続けてきたのですね。未練はありませんか。続けるのは難しいですが。」と、面接官に言われたのです。

え、無理。

私の出した結論はこれでした。
決めかねているちょうど良いタイミングでホームレス小谷さんと出会い、初対面ながらその話をすると、

やりたいことやったらええやん。」

とあっさり言われてしまって(笑)

そうします。」と、名古屋に帰り速攻各社にお断りの電話をかけました。

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でも、このままでは私は春から職なしです。

やりたいことという言葉を思い返した時に、自分の舞踊が研究したいことを確信しました。
実は、大学4年の4月から気になっていた大学院の研究室に何度かお邪魔していました。9月の第1次院試も受けたのですが、意志も弱く英語力も足りず不合格。

もう諦めようと思っていたのですが、「踊れて研究もできたら、誰にも文句言われないんじゃないか」と思って、再び目指すことにしました。

院生としてプロ研究者を目指すなら、踊りもプロを目指さなきゃ。

たまたま目に付いたデザインフェスタに応募。原宿のオフィスにDVD5枚を持って押しかけました。

大学院は、2月の第2次試験で合格。
デザインフェスタへの出場も決まりました。

続く